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鬼灯の河 preview




 その鬼が何時から其処にいたのかは、誰一人として知らなかった。
 浜辺に打ち捨てられた大木が、川下に積もった玉砂利が、風に裂かれてちりぢりに遠退いていく雲の欠片が、何処へ行ったのか誰も知らないのと同じで。
 空は、樺色に深く燃えていた。
 朝に起きて、昼に惑い、夜になる前のほんの合間。
 子供達は笑いながら、家路を急いでいた。今日の夕飯はなんだろう。明日は畑の手伝いがあるから、少し嫌だけど、早く寝ないと怒られる。ああ、また明日あそこへ行こう。とても、名前は知れないけれど、綺麗な花が咲いていたから、きっとあそこに行こう。
 里は、朱色に浅く染まっていた。
 夕餉の支度、米の炊ける香り、醤油の焦げる匂い、はたはたと忙しく巡る、夜と昼の境。
 よくある町並み、有り触れた風景。夕日の中に立ち並ぶ、誰かの日常。
 余り舗装されていない道、里を通る土の上を子供達が駆けていく。大人達は急ぎながら、歩きながら、笑って、焦って、日常を噛み締める。その中で、一人だけ。
 その姿を、例えるならば、萼の枯れて、白く細く残った鬼灯の実に良く似ていた。
 過ぎていく。一人を置いて、皆過ぎていく。
 ゆたりと片足を引き摺る様に歩く向きは、家路を急ぐ子供と違う。
 皆が置いていく。
 置き去りにした場所に向けて、歩いていた。
 向かう先に何があるでなく、行った先に何がいるでなく。
 一人は歩いていた。
 その鬼は、里の中を歩いていた。
 梔子に染まった髪は、薄の様にばらけて靡く。耳は爪の様に尖り、その瞳は何も映してなどいなかった。鬼が行くのに、誰も気づかない。書割の景色を歩く様に、鬼だけが其処に居た。後は何もかもが作り物であるかの様に、一人きりで歩いていた。
 道は、赤茶に細く続いていた。
 喧騒、謡う様な、唄う様に。笑う声、怒る声。
 ひたりと一つ雫が落ちた。
 だらりと垂らした指から落ちた。
 鬼は、蘇芳に色濃く染まっていた。
 子供達が行き過ぎる。大人達が擦れ違う。向かう先は違い、一人は一人に、皆は皆に。日常が日常のまま行き過ぎていく中で、鬼だけが取り残される。
 そんな情景。
 薄く閉じた瞼の中で、群青色の虹彩が鈍くはまっていた。
 支点が定まらない。視点は掻き消えて。始点は何処かも分からない。
 ふと耳の奥で、歌が聞こえる。かちりかりと軽い何かが擦れる音と共に。何かが聞こえる。ずっと、もうずっとずっと。
 ―遊びをせんとや生れけむ
  戯れせんとや生れけん
 耳に付くのは、男の物とも女の其とも別のない、低く高く、甘く凍った静かな歌声。分かっているのは、その色は鬼を嘲る心に満ちて。ずきりと鈍く腹が踊った。底の底が焼き爛れた様に、瘡蓋の乾かぬ内に剥がされて、止め処なく、切れ目なく、ただただ膿んでいくのを待つしかないと言うが如く。ひたりと一つ、雫が落ちた。指の隙間、腿の上、胎の底から雫が落ちる。赤い紅い、鬼灯の実よりもずっと濃い色をした雫が。
 子供達が擦れ違う。
 その先には何もない。
 暗い黒い夜の森しかありはしない。
 其処から来て、皆家に帰る。
 ―遊ぶ子供の声きけば
 ふと視界の隅で何かが触れた。
 森へと続く道、里へと戻る道、その境目、その端で。
 子供が、泣いていた。
 膝を抱えて、泣いていた。
 膝小僧には紅い瑕。擦り剥けて、皮が裂けて、血が滲んでいた。
 その時、鬼の胎で何かが踊った。
 またなのか、まだなのか。
 奥歯を噛み締めながら、そう呟いた。腹の底が痛い。酷く、痛い。痛くて痛くて、今にも爛れ落ちそうな程に。眩暈、鈍痛、咽の奥が血で乾く。情景。引き千切れた和紙の様な視界。ふらりくたりと鬼は、子供へと近づいた。
 子供の裸の足に、雫が一つ落ちた。
 泣いていた、子供が見あげれば、そこで鬼が笑っていた。
 ―我が身さえこそ動がるれ
 その姿に、子供は声を忘れていた。
 「ひとりなの?」
 鬼が尋ねても。
 「そう、ひとりなの。帰る家はあるの?」
 どんなに尋ねても。
 「そう、あるの。そう。たまたま、ひとりなの」
 どんなにどんなに。
 「私は、ずっとひとりよ。縁が切れたから。他の皆、皆、皆、皆、縁が結ばれたから。結ばれてるから。私だけの縁だけ切れた」
 首を絞められていても。
 子供は、言葉を亡くしていた。
 「ああ、妬ましい。生きてる子供は皆、妬ましい」
 その鬼が何時から此処に来たのか、誰一人として知らなかった。